『Re-Living Conditions 2001→2022』に向けた問いかけ 土居義岳

 


 2001 年の議論において批判したのは目的論、タガ、タイポロジー(プロトタイプ)、全体像、ファーストオーダーなどであった。これらはいかにも 20 世紀的でプラトン的なイデア論である。最上位の理想や理念があり、そのやや劣化コピーとしての現実という構図である。1990 年代以降の新自由主義はそれを時代遅れのものとし、2020 年代以降のポストグローバル化はまったく無効化している。

 コンディション論は、そもそも目指すべきイデアを設定することが無効であるというつよい意識から出発している。さまざまな KW を創案した。マキシマムチョイス、バリエーション、セカンドオーダー、1000 宅(選択)論などと各論的に語ってきた。それらはイデア論から離れてなにを志向するかのさまざまな問いかけであった。それはいまだ集約されていない。いまだに、のびしろだらけである。そうした議論の状況に、とりあえず「ポスト・イデア論」と仮のラベルが貼れるであろう。

 2022 年の議論はこの一時的なラベルをさらに深化させ、総論にむけてステップアップし、具体的な方法論を得るであろう。建設的な議論のために、仮の枠組み、あるいは指標を設定してみよう。

 たとえば「人」である。20 世紀の住宅は「国民」あるいは「市民」というイデアを目指してきた。ところがグローバル化はそうではない世界人という幻想をもたらしたが、やがてそれは空疎なアイディアであったことを露呈している。ポストグローバル化は国民概念を再浮上させているが、それは災禍の復活とともにである。そして今日、建築家はいかなる人間の定義を前提としているか。そのように問うてみれば、論考の広い空白域があることに気づこう。すくなくともそれは議論してみる価値がある。

 「社会」もそうであろう。19世紀の自由主義経済下では住宅はまったく私的なものであった。ところが20世紀初頭の危機から、住宅は公的なものとなった。1980 年代以降はふたたび私的なものとなった。今日では、決定的なカテゴリー化はまだのものの、住宅は地域やコミュニティに立脚する「社会的」なものとしても構想されている。そうしたなかコロナ禍では、私的であるはずであった健康や衛生が、ふたたび公的介入の対象となった。私たちの生活のなかで公的/私的/社会的という境界はつねに移動するのである。

 「もの」「しくみ」もいわずもがなである。情報、環境、資源などという諸懸案、そして建築という社会的分業のプロセスなかで、建築家がどのパートを分担するかという前提もフレキシブルに調整されうるものとなった。建築家はより全体にかかわれるようになったのである。「危機」概念は今日、多くの人に共有されている。21世紀も災禍(災害や人災)と回復という終わりなき反復であろうと認識されている。ところがこれは 19 世紀が好景気と恐慌のくりかえしであったことが認識され、そしてそのとおりの現実となったのとおなじ構図である。すなわちシステムダウンもまたシステムに内包されている。この構図が、18 世紀以前とも、20 世紀的イデア論ともまったく異なっている。

 このように反省してみると、石田氏のコンディション論は、かつてのグローバル化の状況をとらえていただけでなく、ポスト・イデア論という構図のもと、100 年スパンのおおきな射程をもっていることがわかる。アプリオリな枠組みを前提とはせず、プロジェクトごとにシステムや方法論をブリコラージュしていくなかで、新たな普遍性を獲得してゆく。この観点から最後の20年間をチェックし、未来に対する構えを整えてゆけるであろう。

土居 義岳